昭和40年11月23日 月次祭



神様の絶対愛を信じて、生活をさせてもらうと、神様の絶対愛を信じて、信心を進めていくと。そこからでなからんと、信心の稽古は出来ないようでございます。ですから、先ず、私共は、頂ききってはおりませんけれども、先輩、徳を受けられた例えば、徳を受けられた先生方、一杯の方たちが、おかげを受けておられます。それを見ると、なるほど、信心一つでは、ああいうおかげも受けられるんだということを、その、知らなければいけない。ここでは、ささやかながら、私が、私の信心、私の心一つで、ま、現在の椛目のごひれいを頂いておると。「ね」。ですから、神様の、おかげを頂かれんのは、結局、こちらの心不足である。こちらの信心不足であり、修行不足であると言うことを、先ず、持ってせんと、信心は、成長もしなければ、その信心も、進みもしない。また、本当のおかげも受けられない。「ね」。まあ、いうなら、あー、神様の働きというものは、絶対のものである。間違いのないものであると。皆さんあの、ご覧になったことはないでしょうか、と言うても、子供のときにサーカスを見に参りましたら、あー、手裏剣投げというのがあっておりました。向こうの壁のところに、こうやって、女の人が立っているわけなんですね。で、こちらから、畳二枚ぐらい離れたところから、たったったったっと投げていく。も、ここへ、さっさっさと、刺さっていくわけなんです。「ね」。もう、こうして手を広げとりますと、手のここまで、さっさっさと、こう、手裏剣が入っていくわけです。もう、本当に、汗を流すような、名技である。「ね」。名人芸ですね。稽古すると、あんなことが出来る。それは、とても、とても、投げる方に人の技術というか、技量と言うものを、信じておらなければ、立っておれることじゃないですね。そうでしょうが。ひょっとして、間違いでもしたらどうするじゃろうかと思うたらもう、向こうは投げられよる、よけようでもするなら、ここに刺さってしまうということに、なりかねないと私は思う。「ね」、ですから、これは、ですから、人間のする事であるから間違えるかもしれませんけれども、神様の、絶対愛というもの、神様の働きというものはです。もう、氏子幸せにせねば置かんという働きだけだと信じることです。「ね」。氏子、可愛いという信念の働きだけしかあっていないんだと、そこに、確信を段々、強めていく、深めていく。「ね」。そこから、私信心が進められていかなければならんと思う。そういう、言うなら、無限の、力も、広大なお働きも、なさることに出来れる神様を頂きながら、私共が、おかげを受けられんのは、どこにその、おかげの受けられん元があるかと、「ね」。その元を追求していくことが、私、信心を追求していく事だと思うですね。「ね」。そして、ああでもなかろうか、こうでもなかろうかと、お話頂きましたり、また、先輩がなさった信心やら、指導やらも、一生懸命させて頂く、「ね」。そして、教えを頂くのである。そこに、これは、私の信心の、いわば、仕方、心の持ち方、考え方、が、足りない。もう、神様のほうが間違えるのではなくて、こちらのほうの間違いを、分かっていくということなんです、信心とは。徹底そこを追及していくことなんです。「ね」。人間の力では、どうにも出来ない。それは、皆さんが、様々なこと折に触れて、体験されることであろうけれども、それは、小さい事であろうが、大きい事であろうが同じ事なんです。「ね」。このくらいな事ならば、もう、自信があるけれども、このくらいになると、もう、自信がない。それは、誰でもそうでございますけれども、「ね」、ですから、ほんなら、これは、このくらいのものは、おかげ頂かせきんなさらんような、神様では無いという事だけは、確信しなければいけない。「ね」。ただ、こちらの信不足であり、こちらの、信心不足であるということ。ここで、段々、いわば、願いが大きくなってくりゃ、大きくなって来る程に、自分の信心も大きく育っていかなければならない。ということになるわけです。「ね」。神様の絶対愛と。「ね」。それを、私は、分からせて頂くまでが、先ず、一人前だと。「ね」。なかなか始めたら分かりません。先生は、あんなこと言いよんなさるが、ほんなこつじゃろうかというぐらいのところから始めさせて頂いて、なるほど、神様の働きの間違いのなさというものを、分からせてもらい。そういう、間違いのない神様を頂いておるのであるから、「ね」。いよいよのときは、微動だにしてはならん、動いてはならん、ということになるわけです。こうして、最後まで任せないといけません。そして、ほんなごつと、こうして、手ば、こう引っ込めよるもんじゃから、当たらんということになるわけです。ね、手を怪我するということにもなりましょう。そこんところを、私は、狭めていけれるということが、私は、信心の楽しみだと思うですね。
例えば、皆さんが一様に、いま、思うておられること。それは、御造営のことだろうと思うのです。「ね」。本当に、五千万でも、六千万でも良か。一億万円でん良か。「ね」。できるだけ見事なものが出来れば良い。そして、私の上にも、おかげを頂かせて下さい。「ね」。神様に百万円と言うて、約束はしとりますけれども、できるものならば、二百万でも、三百万でもおかげ頂きたいという人は、椛目に沢山あると思います。ところが、百万円のお供えさせて頂きたい、五十万円のお供えをさせて頂きたいと思うけれど、なかなかそこへ、到達が出来ないという人もある。「ね」。そこんところを、私は、貫いていかなければならないと思います。「ね」。人間の知恵やら、力ではどうでも出来ないところをです、神様のおかげを頂かせてもらうということ。私が、御神前にでらせて頂きましたら、何か、一生懸命私が、探っているところを頂くんです。何か。何をさぐっとるんだろうかと私は思ったら、スイッチのあるところを私は、探しているわけなんです。「ね」。スイッチ一つぱっと、本当のことを教えられたらです。まるっきり、暗闇で探っているようなものなのです。多くな光が点きましょう。多くのモーターが唸りを上げて、まう様になりましょう。「ね」。どういう大きな木でも、それで、いわば、湧くことのできるような、製材の働きも出来ましょう。どういう頑固な木でも、「ね」。私は、神前でズーッと綺麗に、まあ、こちらの思うとおりに、几帳面に薄うなら、薄う。厚うなら、厚う、それを製材することも出来ましょう。皆さんが、おかげの頂ける心を持っているならばです。その、心に育てていく働きも出来ましょう。どうすりゃ、信心が分かるだろうか。どうすりゃ、皆さんがおかげを頂けれるだろうか。どうすりゃ、皆さんが、おかげ頂けるだろうかという事を、一生懸命、探っておる。「ね」。その、皆さんがおかげを受けられるだろうかという事を、探っておるという事は、それは、そのまま、私自身の、信心を検討しているわけでございます。「ね」。私のどこに、間違いがあれば、私の信心のどこに、狂いがあれば、こうも、なんていうですかね、ちんばふみよる。「ね」、これは、例えば、その、モーターそのものには、間違いはない。働きそのものには、同じなのだけれども、こちらのスイッチの押しどころが、分からん。そう思わんもんじゃけん、自分の力で一生懸命あせるち。これじゃいかんと分からせて頂いて、一生懸命こう、現在の私の信心の、いわば、心のスイッチとでも言いましょうか、「ね」。そういうものを、私自身が、捜し求めているところである。これをまた、皆さんの一人ひとりの上においたら、皆さんもそういうことが言えると思うんです。どうしておかげが受けられんじゃろうか。こういう尊い、こういう有り難い、しかも神様の喜んで下さることばかり私は思いよるとに。「ね」。あの、御造営というのはです、神様の願い、神様の悲願とまで仰る。「ね」。悲願というのは、どうでもこうでもという願い、神様の。つい、私は、ここ四、五日前までは、そう思いよった。もう、私は、ここで一つも、不足は無い。不足どころか、もう、勿体ないぐらいに思う。昼から下がらせて頂いて、何時もここに座らせて頂くと、それを、いよいよ実感するんです。もう、私は、これで良いんだと。これ以上何がいるかと。それは、私だけならそうなんです。けれどもです、より沢山の人がです、より良い信心をです、より良い信心の稽古場として、信心のしよいような、お広前御造営ということに、思いをおきますときに、私は、これではいけないという。神様の思いに、沿うていくならば、やっぱり、あちらが拠り良い立派な物にです、出来上がっていかなければならないことにです、私が、一生懸命にならなければいけない。私は、どげんでん良かつよと。もう、今、あのまま辞めたっちゃ良かつよ。私が申しますから、委員長の秋永先生が、「先生、あなた、そげなこつ言うなら、どげんこげん(笑い)…」「けれどもね、ほーんなこつじゃから」とこう言う。「でも、そげなこつ言いなさるなら、どんこんでけん」と、言うて、まあ、委員長から怒られることもございますけれども、実際そうだった。ところが、いよいよ、そういうふうに分からせて頂くと、私のためではない。神様の御ため。沢山の氏子が助かることのために、どうぞ、私は、御造営の御成就が、しかも、立派に、神ながらのものがです、なるほど、神様の御徳で出来たものは違うなあというようなものがです、出来なければいけないなということを、感じました。だから私、四、五日からもう、強引にです、私は、一つ、おかげを頂いていかなければならない、そのことに限っては、事を進めていかなければいけないことだと思う。建築のほうが、ごたごたもたついているならば、先ず、石垣のほうからでも先にせよ。造園のほうからでもと、私、最近申しております。「ね」。そういう、例えば、一つの私の、人間心というか、そういう私の、思い、考えも、同時にです、「ね」。けれども、そういう神様の、尊いお働きがです、どこのために、ぎっちん踏んでおるのか、スムーズに進まないのかと。又も、そういうミスがあったのかと、ということを思うときにです、やはり、私自身の内容というものをです、どこに、スムーズに行くスイッチがあるだろうかと、どこに、より良いおかげの頂けるスイッチがあるだろうかと、どこにより良い明るいおかげの頂けるスイッチが頂けるだろうかということを、私は、心に練らせて頂いているわけでございます。「ね」。私は、神様の働きと言うものはです、もう、絶対な物だと、私は、今まで思うておった。神様が先頭に立って行きござるとじゃから。進め、進めと言いござるとじゃから。こっちは、元から、どうでも良か、付いてさえ行きよりゃ良かとこう思いよった。けど、そんなこっちゃでけん。これは、もう、信心一つの働きと。「ね」。神様と私共とがです、一緒の働きをやるによって、神様の願いが成就させて頂けれるようなおかげを、受けなければならないということ。そこで、私が、思いますことは、なるほど、信心の熱情が、の、スイッチが欠けておるということ、第一。「ね」。真心が欠けておるという事なんです。「ね」。思いが足りないと、「ね」。もう、足りない尽くしである。そこで、ああでもなかろうか、こうでもなかろうかと、また、探りながら、自分の信心と言うものを、確かめさせていただくために、ま、あらゆる修行をさせて頂いておるのでございますけれど、皆さんは、どうでしょうか。「ね」。皆さんが、例えばです、それは、御造営だけのことではなくても、ご自分自身のことでもいいのですよ。これだけ御願いしているのが、どうして成就せんのだろうかと。どうして叶わんのだろうかと、とだけ言わずにです。どこに、この、おかげの頂けれるスイッチというものが、あるかということを、先ず、自分の心のなかに探らにゃできん。私は、今、何が何と言うてもです、まず、現在の椛目では、熱情だとこう思う。「ね」。もう、この頃はですたい、椛目の場合、五人、十人のものが、熱心になっただけでは、とても駄目だと。「ね」。
私は、今朝から、こういうような御夢を頂いた。何かこう、大安売りがあるような状態。そこに、なんかこうこずんどる。その中から、私が、一本こう、反物を引き出したら、それは、見事な、幅の広い博多織のような帯だった。「ほう、この帯は立派な帯になる」ち、言うてから私がですね。もう、それこそ、こんもりと茂った森なんです。「ね」。松もありゃ、杉もある。雑木も一杯、もう、こんもりとしたその森をです、私がずーっとその、帯を持っていってから、一遍取り回り、そして、ここんとこで、からむすびに、私が、こうやって結びよるところです。「ね」。皆さんどういうことだと、これは思いますか。今日私今、申しておりますように、とても、五人、十人が立ちあがったっちゃできることではない、一生懸命やったから、バタバタしたからと言うて出来るこっじゃない。如何に親先生が、御徳うけてござったっちゃ、親先生だけじゃでけん。椛目で何時も、私が申しますようにね、その、御造営が例えば、五十名の方、言うなら、椛目ではその、七人組とか、「ね」。十人組みとか、五人組とかに、色々その、申しますが、「ね」。椛目の、どうでも、四十七士が、私を棟梁とする、(つまらん、美味しい、よしお?)でございますけど、私を棟梁としてです、ここに、四十六名がです、「ね」。四十、私とともに、七名のものの、力、働きというものがなければ、その、本懐がです、成就するということは出来ないと。四十七人のものが、本気に、一つになって、「ね」。すれば、それこそ、世の中をあっと言わせるような、いわゆる快挙を快挙たら占めることが出来る。それは、あれが、神ながらに出来上がったら、もう、本当に、世の中だけじゃ、世の中って言うことは分かりませんけれども、そら、信心のない人達でも、今でも言いよんなさるそうですばい。始めの間は、本当にあの、事業つきが、あんまり念の入っとったきん、ビックリしよった、近所の人達が。「ばかんごと、あげんするこつはいるめ」ち、言いよった。そして、建ったらほんなコーマか柱がたくさん建ってから、住宅のほうに。ふん、あげな家建つるのに、あげな基礎してからち、言うて笑いよった。ところが、堂々と、まあ、言うなら、鉄骨が建ちだしたら、やっぱり神様じゃなあ、やっぱり神様じゃなあと、言うてから言いよりますと言うてから、この頃、あちらの部落の方達が来てから話しております。「ね」。やっぱり神様じゃなあと。ですからこれは、教団の上にもです、私は、今日、用件が有りましてから、久留米に、一緒に来て頂いてから、参りました。あの、お手洗い鉢の石が、二、三日前に到着しております。それで、今日電話の架かってきて、是非、仕事に掛かる前に見に来てくれち。それが、ちょっと、こちらが注文していたより、二寸広かったり、又は、三寸長かったりするものですから、勿体ないから、このまま彫らせていただきましょうかと、向こうが、言うておられるわけなんです。ま、兎に角、石を見に来てくれと。ですから、急にその電話の架かってまいりましたから、今日私、十二時を回ってから、お食事済ましてから、高芝さんに来ていただいて、行ってまいりました。まあ、見事な石が参っております。それから、帰りがけに、先生、高良山に、いっぺん連れて行きましょうち言うてから、今日は、高良山の、あちらの、大きな、高良山ビルのようなものが出来ております。それの、今日は、開店ですね。の日なんです。それで、ま、そこを見せて頂いたんですけれども、おー、帰りにあの、旗崎教会の前を通らせていただきました。あそこも、なんか、今度、四十年の記念祭か何かがありまして、お手洗いの、御造営があっておりました。ま、自動車の中から、ちょっとではありますけれども、ま、それはそれは、それこそ見事です。なあるほど、あちらの先生の御徳で出来よるということを、もう、自動車の上から、実感いたしました。「ね」。それは、やっぱもう、ここ近所近辺の、評判になっておりますそうです。あちらのごひれいのことが。「ね」。それが、先ほど、ある方が言うておりましたが、百万円で出来ておるそうです。たいしたもんだ、大したことだと、皆がたまがっておる。この頃から、三百万円のお広前が、御造営になっておる。西久留米に。大したごひれいだ。本当に、大したことだと。私共の、長男が私の代わりとして、代参致しました。見事に出来ておる。ですから、これが、どうでしょうか。その、十倍も、十五倍ものものがもし、本当に、完成したら。とても、この近所界隈だけではない、教団の中にです、私は、何か知らんけれども、ま、その、あっといわせるためではないですけれどもです、やっぱり神様の働きじゃなあと、大坪さんの信心をとやこう言いよるけれども、やっぱり大坪さんの信心も、間違うとらん証拠を、あちらの信者さんの信心も間違うとらん証拠とまで、なるだろうと私は思います。そこに、椛目の信心が本当に、正面たって、正面きって、いわば、教団の中にお役に立たせて頂けれる、時期が、そう遠くはないという気がするんです。そういう意味合いにおいてでも、なかなか意義の深い思いたちである。勿論、神様の思い立ちであるということなんです。「ね」。そこで、例えばです、何百名かの方がありましょう、現在、その御造営に寄与している方たちは、やはり、数で言うなら、何百とありますけれども、実に、中心になって、本気で、「ね」。私のことというのではない、それこそ、神様の御こととして、神様の御用として、私共が、立ち上がらせて頂くというものが、四十七名椛目に必要である。「ね」。その、四十七名の中に、私共が一つ、入らしてもらわなければならんという、願いを持たなければいけん。おそらく、みなさん、 持っておいでだろう。私は、その中の一人であると自負しておられる方もあろう。所がです、四十七名のそのものがです。燃え上がるところのものが、今、かげているんだということです。「ね」。私は今日、その、大きな森を取り回すほどの、いわば、博多帯のような、しっかりした、こぶのような帯でございましたが、夢に頂きましたのが。「ね」。「しっかり信心の帯をせよ」と申します。「ね」。五人、十人しっかりと信心の帯をしたっちゃつまらん。この、森全体が、「ね」。森ということは、私は、神様と。取次ぎ者。信者氏子と。この三つの心、森という字は、三つの木を寄せて森と申します。森と読みますですね。ですからこの、三つの心がです。信心の帯を、しっかりしなければ、おかげは受けられないということ。「ね」。場合によってはです、それが、抜けようとしておる人もあろうから、中に押し込まにゃならん人もあるでしょう。今朝から、そんなご理解を頂きましたら、ご理解を頂いた後に、丁度あの、永瀬さんがお届けをされるんです。先生、昨夜から、今朝からお夢を頂いたと。そのお夢というのが、どういう夢かというとです、大牟田行きの汽車に皆な、椛目のものが行きよる。さあ、前の汽車にのっとるけん、後から、乗り遅れとるもんは、みんな押し込んで、大牟田行きに乗らんならんというような御夢である。どげなことだと思います。「ね」。もう、その、乗り遅れとるとは、やっぱり、引っ張ってでもその汽車に、乗せなければならないということ。大牟田ということが、素晴らしいと思うんです。大は、大という字ですよね、牟はね、カタカナのムを書いて、牛という字を書きます。「ね」。皆さん方が、何時も頂かれるように、牛のお知らせはめぐりとこう申します。「ね」。いわゆる、大きなめぐりの無い、世界というような感じが致します。「ね」。大きなめぐりの無い世界。大牟田の田という字は、おかげの受け場と、こう仰る。そこへ、どうでも、総代さん方を始めです、遅れているものは、それに、押し込むようにしてでも、一つ、大牟田行きをしなければいけないと。そしたら、朝の御祈念中に、御神願に、やっぱり頂いておりますことがですね、お友達に、稲田さんという人、稲田さんという方がおられるそうです。その、稲田さんというのが、後ろから、そっとこう、長瀬さんに、負われかかっておられるところを頂きました。「ね」。ですから今、重たいとか、きついとか思うておることはです。もう、そのままが、稲田だとこういうことだと私は思いました。「ね」。そして、今朝の御理解の、只今申しますような、あー、御教えをです、いろいろ検討して、けさ、御理解頂きましたが、その、御教えの丁度、裏づけをするようなことを、長瀬さんが頂いておられます。ですから、そこのところへです、お互いが焦点置かして頂いて、おかげ頂かねばいけません。
今日、熊本の、明智さんご夫婦、それから、大浜屋さんという、これは、あの、(いりょうぶ?)の卸をやっておられる方なんですけど、月に、一、二回、必ずおまいりになられます。今日、参ってまいられましてから、えー、お話です。もう、私共は、月に、一回か、二回しか参ってまいりませんけれども、もう、先生の御理解を、ここでも頂けんから、テープで頂いて帰りますと、その中の、何かを自分のものにさせて頂いたら、それが、本当に、おかげの元になると言う。今日なんかも先生、おかげ頂きましたという。今日はね、あの、浜という字の御理解であった。それがその、大浜屋さんじゃん。そるけん、これはまるきり自分のこととして、頂いて行かにゃならんと言うてから、喜んでおられました。去年の冬だったでしょうか、先生が御理解を下さった。それは、どういう御理解だったかというと、「心へて、いながら滑る、雪の道」という御理解じゃった。心得ていながら、滑る雪の道、「ね」。ところが、それから、何時間の後にその、もう、本当に、ヒヤッとするように、その、自動車が滑って、事故の寸前でおかげを頂いたと言ったような事でもです。「ね」。兎に角、御理解そのものがです、真剣に頂いてくると、その通りになってくる。これは、私自身が、朝に、夕に、神様に頂きますことを頂いておる。皆さんも、それを朝晩頂いておられる。ところが、椛目では、それを矢継ぎ早に頂きますもんですから、「ね」。やはり、それを、聞き流し、また、同じことのように、また、実際はおんなじことです、「ね」。けれども、それを、品を変え、手を変えしてから頂いておる。品を変え、手を変えするからです、その時、その時に、自分の心にピッシャットくるものが頂けるでしょうが。
今日も、ある方がです、もう、ある人から、何か言われた。もう、それが胸にもう、突き刺すように悪いと。それから先が情けない。歯がゆい。「ね」。先生こげなときには、どげんしたら良かろかち言うてから。まあ、お繰り合わせいただくようにと言うてお願いされた。そしたら、私神様から、そのことをお取次ぎさせて頂きよりましたら、あの、女の方たちは、日本髪をこう結うとき、中にカモジというですたいね、カボとも言う。こう、髪を丸めたようなやつ。それを頂きます。例えば、ほんなら、今日一日なら、今日一日の信心を結い上げる。髪を結い上げる。結い上げるためには、どうしてもタボがいる。心の中が、自分の信心の心の中がです。それこそもう、乱れてしまうようなことがある。「ね」。それこそカモジのようになる。それを、口に出さず、態度に出さず、金光様、金光様でそれをまるめて、それを結い上げていく為の、タボにして行けという御理解でした。まあ、そういうようなことを、色々頂くんですけれどもですよね。頂いたとたん、ああ、左様でございましたということになって、すっきりするでしょうが。その、すっきりする心が、確かに、おかげを頂く元になることは、間違いないですよ。今朝からの、その、浜という字のお知らせなんかでもそうでした。私が頂きますのは、さんずい辺に丘と頂きます。「ね」。丘を越えての丘です。岡崎さんの岡ではないんです。ある、その、難儀なことを取り次ぎさせて頂いたら、それを頂いた。だから、私が、あんた何時も日頃、大きなおかげば頂きたいと。今度の御造営ども、神様、こげんこげんのおかげを頂くと言うてから、あんた、いっちょん出来とらんじゃないかと。「ね」。確かに、あんたそういう大きなおかげを願っておるじゃないかと。「ね」。例えば、その、さんずいということは、神様の、神の恵みと仰る。「ね」。その、いわば、いわばその、丘まで行っておるんだと。信心は、山登りと同じことだとこう仰る。もう、丘、丘に、一つか、二つか、金光様、金光様、点々を二つちょっと打ったら、浜になる。もう、浜に近付いておる。これが丘ではない、山を越えさせていただくときに、もう、そこには、海があると私は申します。鯨の住むようなおかげを頂きたい。ならば、先ず、丘を超え、山を越えして行かなければ、大海のようなおかげ、鯨の住むようなおかげは受けられないではないかと。という御理解。その方でもそうでした。ほんに、そうでしたという事でした。「ね」。ご理解というのは、有り難いです。その時、その時の自分の心を、豊かに美しうしてくださることが出来る。お互いがどうでも一つおかげを頂かなければいけない。「ね」。そこで私は、今日は、思いますのにです。椛目全体が燃え上がる。椛目全体と言うてもです。四十五人の方が燃え上がる。それには、先ず、薪が必要である。先ず、焚き付けが必要である。「ね」。あるときに、金光様の、教祖の神様のおられる通りがあったそうです。あるお婆さんがお参りしておられた。御理解を頂かれた。それで、その、その、お婆さんは、どういう御理解を頂かれたかというとね。「人の悪きは、我が悪し」と頂いた。人の悪いとこが目に付くことはです、もう、お前が悪いんだぞと、教祖が仰っている。それからひとつ、覚えなさった。「人の悪しは、我が悪し」ただ、帰りなさって、ほんなら、まあ、村のことですから、もう、ねぎ棚に一杯こう薪が積んであったらしいですね。そしたら、ごろごろ持って行きんさるそうです。人の悪しは、我が悪しというごたる風で、今日もやっぱり本当にですね、真剣にさせていただいておって、そういうことを、平気でやっておるということは、ありはせんでしょうかと言うことである。竹を持ってくるわけじゃないでしょうけれども、人の真心を、ガバッと持って来てから、相手のほうに傷つけておるということは、ありはせんですか。「ね」。人の悪きは、もう、本当に、我が悪きにしてしまう。行くようなことが、私は、有ると思う。「ね」。そこで私は、思うのですけれども、先ず、幾ら、薪が、薪というのは、真心という意味に私はいただかにゃいけんと思うのです。「ね」。薪とは、真の木と書きます。だから、真心ということになるでしょうが。どうでも、薪を必要とする。なら、薪だけではいけんでしょうが。つかん。「ね」。ですから、やっぱり炊きつけが必要なんです。私共は、その、薪を粗末にし、焚き付けを、お粗末にしているようなことは無いだろうか。折角、神様が、焚き付けになるようなものを、下さっているのに。せっかく、神様が、その薪を、作らしてくださる働きがあるのに、薪は作らずに、言うなら、その、焚き付けは作らずに、何時までたっても、燃えつかないということ。燃えない。「ね」。
どうでもひとつ、自分のおかげの受けられないということは、これは、私も、只今、申しますように、皆さんも、そういうような一つの、勢いが出すことのために、私も、どうしたら皆さんがおかげ頂けるじゃろか、そげなこっじゃおかげ頂けんはず、というようなものではないのです。私自身の心の中に、どうしたならば、どういう悪きを持っておっても、大きゅうなる。どういう頑固な木を持っておっても、それを分けれるだけのです。「ね」。例えば、製材にもって行けば、さーっと、掛けれるじゃないですか。そういう、スイッチを、ボタン一つ押せば、大きな製材の木をがーっと、そんな風な利を生じて前に出すようなです、おかげの頂けれるボタンはどこにあるだろうかというて、自分の心の中に、探求しておる。「ね」。それと同じ様なことを、皆さんもやっぱり、「ね」。どうしておかげが受けられんだろうかと、言うだけにいわずにです、神様の働きというものを、絶対のものとして、神様のおかげ頂かせきんなさらんことは、ないのだけれど、しかも、こういう、有り難い、尊い願いをしておるのだから、おかげ頂けんはずは無いと。のに、おかげが受けられんのは、こちらの信心のまだ、間違いがあるのだという、そこを、一つ探求していかなければならない。追求していかなければならない。ために、修行の一つも、させてもらう。「ね」。私は、思うのですけれども、椛目の方達はその、熱情が必要だと。ということはです、やはり一つの、この、和行ですね。和行の一つぐらいもう、この際さして頂かなきゃいけんのじゃないかと。この頃から、あの、秋永先生とこの徹さんが、丁度、三ヶ月間ここで修行をさせて頂きました。それで、帰りを、おー、歩いて、福岡まで帰ると、お礼の印に。まあ、お礼の印というが、最後の修行に、歩いて帰りたいとこう言う。それで私は、すぐ神様にお許しを頂いて、あーもう、あげなふうな姿で、紋付袴をつけてから、じっちゃまの、ぞうりを借りてから歩いている。そら、始めは元気に行きよったそうですが、丁度、菊栄会の二十日の日でございましてから、あー、菊栄会の方達が、福岡の方達がやってきよるところが、向こうから、妙な格好をしたやつが、やってきよると、もう、足の上がらんごたるふうしてから、歩いてきよるんですって、やっぱ。あれは、誰じゃろうかねと言うて、そばに段々近付いてきよったら、あら、徹ばいち。「ね」。それで、さ、ここで自動車ば、止めんなり行きすごさんにゃ、ここでものでん言いよるなら、もう、力抜いてしまうぞと言うてから、そこを通り抜けたとこういう。そしてすぐ降りて、電話かけた。徹さんが帰ってきて、あそこ白木原の駅のとこまで帰ってきよる。と言うてその、電話を架けたそうです。それでその、家からその、嘉朗さんと弟の英治さんと二人で、えー、まあ、応援に出かけた。それでその、嘉朗さんが、「これで、自動車に乗れ、そげん足の痛かなら、これから先乗って、ご無礼して、乗っていけ」と。「いいや、乗らん」ち、言うて頑張る。ほんならおらは帰ろうと言うて、英治さんだけおりて、一緒にそれから歩いて、白木原から三時間掛かった。もう、途中で、とうとう悲鳴上げてから「もう行かんぞ」ち、言う。そしたら英治さんが、「そんなこつで、どうするか」と、「兄ちゃん頑張れ」ち、言うてから、その、気合を入れてから、それからようやくその、重い足を、それこそ引きずるようにして、家まで到達することが出来たと。「ね」。本当に、一つの修行の中にですね、沢山の人の祈りがあるですねえ。私は、本当にあの、菊栄会の人達が、もう、よう止まってせんで来たねと、言うて今申しましたことでございますけれどね。「ね」。もう、その後ろから、どれだけ皆さんが祈ったか知れません。ですから、そういう祈りの中に、今度のあくる日、お礼に出てまいりましたから、親子三人で。それで、徹さんあんた一人で、した事とでも思いなさんなち言うて、親の祈りは、もちろん、みんなのそういう祈りの中に、三ヶ月、普通では出来ないような、修行が、出来たつばいち。「ね」一週間の断食をさしてもらう。眠らん修行をさしてもらう。様々にその、短期間のことですから、もう、様々な、若いときだから出来ましょうけれども、「ね」。私は、そういうようなお取次ぎをさせて頂いてから、もう、久米町どん行ったろうかとというころでした。神様から頂きますのに、和行、即、心行ということを頂きました。なるほど、和行、即、心行だなあと、「ね」。そげな、一生懸命な和行、形の修行させてもらいよる時には、とても、金光様をいわにゃあ、おられんと。和行はしよるけど、金光様のないごたる和行ならもう、せんが良かということですよ。和行は即、心行に繋がるようなものでなからねばいけない。金光様の信心はです、もう、心行、心行といわれるから、心行にばかり重きを置いてです、本当の心行が出来よるかというと、一つも心行は出来ない。四神さまが仰る様に、和行が出来んものに、心行が出来るかと仰る。「ね」。それを、も少しち締めたような感じが致しますですね。私が、頂いておるのは、いわゆる、和行は即、そのまま、心行だと。なるほどそうだと私は思う。そういう、例えば、修行の一つもです、させていただけなかったらです、もう、大体は、何時死ぬるかという気が致します。そういう一つの、熱情というものがです、今、椛目全体の上に必要なときではないかと思うのです。和行がそのまま心行に繋がる。「ね」。私共がです、そういう、「ね」。焚き付けにでもなるような材料を沢山与えて下さるけれどもです、「ね」。自分の感情、自分の思い、「ね」。例えば、ちょっと腹たちゃ、もうその、腹立ったのを言葉に出して表す。もう、態度に表す。それでは、炊きつけは、何時までたっても貯まりません。「ね」、そういうような時こそ、いま、この焚き付けを神様が下さっているんだという気持ちで、私は、貯めていかなきゃいけん。その日一日の、髪を結い上げるためにです、それを、私は、カモジやら束にしていかなければいけないと。「ね」。そして、一日今日も、おかげを頂きましてという髪を結い上げさしてもろうて、頂かねばならない。「ね」。昨日の、夜の御祈念をお付き合いさせていただくちょっと前でした。中野さんが、ここでお取次ぎを願うんです。先生、もう、いよいよ本気で、あちらも、もう、百日あまり、ここで修行いたします。本当に、信心を元にして、「ね」。それこそ本当にもう、びっくりするような自分でも、どうにも仕様のない病気が、おかげを頂いて、これならば、社会に出てもいいと、こう、段々、思うようになった。それで、社会に出てから、椛目で頂いた信心を元にして、なにか、仕事でも、商売でも、また、勤めでもしたいという希望の元に、んー、一時、帰らせて頂きたい。そして、姉妹やら、お母さんやら、一緒に色々相談させていただいてから、ま、夜通しのようにして、色々決議させて頂いたことがです。先生が、帰るときに言われた。大体ね、私は、貴方は御道の教師にお引き立て頂きたい。あんた、自分自身がです、もう、自分でもどうにもない、もうこの世に二人ものと思っとろがと、私が言う。「ね」。近藤藤守という大変お徳を受けられた、大阪の先生は、そういう、どうにも出来ない自分というものを発見された。自分は、もう、糞尿とおんなじことだと。だから、その、糞尿のような自分がです、世の中のためにです、根肥しにでもなればと、神様の御用にお使いくださいと言うて、教師になられたぎなが、あんた自身が、そうだったじゃないかと。もう、自分のような、つまらん、情けない男はもう、おらんと分かった。同時に、親もそう思うとる。姉妹もそう思うとる。「ね」。言うならば、親からも見離されておる。いや、自分自身ですら、もう、自分を見放したような、姿で、椛目には飛び込んで来たっじゃろうがと。だから、私は、もう、その時から思うとった。もう、この人こそ、道の御用に立つと私は思うた。もう、いよいよこの世のすたれ者。「ね」。それ、あんたが今から、あんたがね。出てくるその、信心を元にして、仕事に就くなら、勤めに出るなら、それもいいけれど、私は、そう思とったと言うて、言い持たせてやった。だから、そのことを、姉妹、姉さん達がしっかり出来ておりますもんですから、「ね」。そこんところを、一生懸命はなさせて頂いて、決心がついた。「ね」。自分のようなものでも、御道の御用に使うていただけるならば、本気で、そんならば、私が助かることのためにです、御用に立たせて頂こうというところから、改めた、いわば信心がなされるようになってきた。「ね」。いわゆる、本当に、道の教師を目指しての修行が、ここ四、五日出来ておるわけなんです。ですから、そのためにです、自分自身が助かっていくことのために、より、いよいよ助かっていくことのために、先生、自分は、私は、どういうような信心を自分の掛け守りとして、行ったらよろしいか。言うならば、座右の銘です。机の前に貼っておきたい。何か、神様から一言いただきたいと言うて、お届けをさせて頂いておる。そしたら、神様から、もう、なかなか出来るやら分からん。したら、神様から頂きますことがです。一切修行と頂く。一切修行、次にはね、何やったかね、あー、渾然と湧く力と頂く。渾然と湧く力。なるほどこれは、御道の教師でもさせて頂く様に志すなら、ここんところを、一つ頂かにゃいけんと。これは、私は、お道の教師ではない、今の椛目の人こそ、ここんところを頂かなければ、炊き付けも薪も出来んと私は思うた。「ね」。一切修行と。渾然と湧く力と。「ね」。どのようなことでも、それを、私一人のための修行だと頂かせてもらわにゃいかんと。私を、感心させてくださることのための、働きとして頂かせてもらう為にはです、心の底から、渾然として、湧くところの力というものを頂かなければ、受けられない。これが、あんたの座右の銘だと言うて、お書き下げを頂いた。「ね」。これは、御道の教師を志すものだけでは無いです。椛目に、本当に、御神縁を頂かせてもらうものは、ここんところを、実を言うたら、頂かせてもらわねば、私は、椛目が、実は値打ちは無いと。一切が修行なのだと。「ね」。しかも、より良い信心をいただくために、よりよく、私が、真の人間に成らせて頂くことのために、よりよく、神様の、お喜び頂けれる、お役に立つ私にならせて頂く事のためにです。一切修行ということに、ならせて頂いたら、有り難いことだと。その腹が決ったら、私は、本当に、楽な世界が開けてくるのじゃないかと、こう思わせてもらうのです。「ね」。どうして、こげなことば、難儀せんなんだろうかというところに、何時までたっても、難儀は絶えない。その中に、飛び込んでいくということ。そこから、私は、道が開けてくると。「ね」。それとてもです、それとても、神様の絶対というものが、信じられなかったら、そういう修行は出来ません。やっぱり楽なほうへ走ろうごたる。神様の間違いなさる。神様の絶対というものをです。ここでいうならば、私を、一つの見本としてです、なるほど、神様は間違いのない、絶対のお方であるなあということを、皆さんの、日々の体験の中からそれを感じさせてもらい。私の信心の中からそれを皆さんが、吸収してくださり、「ね」。神様の間違いなさというものが、分からせて頂かなければ、そういう修行はまた出来ません。どうぞ、ここに難儀がありますけん、はよう、難儀から、「ね」、その難儀から救い出してくださいとばっかりしか願わん。「ね」。痛い、かゆいを、そら、願うても良い。けれども、そのこと自体を修行として頂かなければいけんのです。しかも、それをです、痛いからと言うて、痛いと言うたり、かゆいと言うたりせずに、それを、日々の、「ね」。髪を結い上げていくことのための、束ねにでもしていくという気持ちで、私は、その乱れた心も、丸めて行くところの、信心させてもらおうと。本当の信心を、成就させていかなければならない。「ね」。
私が、今朝から、御夢を戴いております、いわゆる、大安売りということ。森を取り回す帯ということ。これは、神様、取次ぎ者、そして、信者氏子、これが三者一体になってです、信心の帯を、しっかりしなければならない。遅れておる人がいるなら、永瀬さんが戴いておられるように、押し込んででも、大牟田に送らなければいけない。ね。そのことがです、神様の願いのご成就のことのために、一生懸命お互いが、精進させて頂くとき、ね。それをそのまま、自分の力に、自分の御徳になっておることであろう。ね。普通でなら、百円出さなければ買えないものがです、今ならば、神様が、五十円で大安売りして下さっているという感じ、椛目の場合。ね。今、この大安売りのチャンスを逃したらです、、、
昨日の、御理解の中にありましたようにです、千本桜のあの、寿司屋の段じゃないですけれども、いがみの権太が自分の子供を、自分の可愛い子供やら、家内を犠牲にしてから、親父の苦労をしておるそのことに犠牲にしてから、それを、王の前に奉ったけれども、その時には、もうすでに遅かった。親父がもう、
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